文・写真=菊地敏之(アルパインクライミング推進協議会会長)
近ごろ、クライミング界で「アクセス問題」という言葉をよく聞くようになった。特にフリークライミングの分野ではこの言葉はもはや当たり前で、この解決があって初めて今のクライミングは成り立つと言っても過言ではない。岩場というものはそのほとんどが他人の所有地内にあり、そこに立ち入るにはその持ち主の許可が必要、というのは今やクライミングの世界でも社会的常識であるからだ。駐車場の問題もまた然り。
しかし私自身の正直な気持ちを申せば、昨今のこうした――しかも時に過剰とも思える動きのいくつかには、疑問も感じないではない。
というのは、やはり最初の素朴な気持ちとしては、本当にそこまで管理されているようには思えない、あるいは明らかに公共の場所と思われるような場所で“今まで普通に行なってきたこと”に、果たして許可が必要なのかということ。
もちろんこれが古い人間の暴言だということは百も承知している。管理されていようといまいと人の土地は人の土地なのだし、今の時代、これらをクリアにすることはクライミング界にとって絶対必要だということは充分理解している。そしてこれは絶対忘れずに言っておきたいのだが、その解決に向けて様々尽力されている方々に対して感謝と敬意を感じていることも決して嘘ではない。
だがそれでもこの問題のある部分には、一抹の違和感も抱かざるを得ない。それは、どうもクライマー自身の側に、自分たちのやっているこの行為――クライミングを、迷惑行為、または「悪いこと」、あるいはもっとひどくは違法(犯罪)行為だと思っているような節が、肌感覚として感じられて仕方がないことだ。
いやいやいや、誰もそこまでは・・・と言われるかもしれない。だが実際、いくつかの岩場で観光客やハイカーはどこにも自由に(時に岩場の下まで)入れているのに、クライマーが自らそこでクライミングを自粛する、さらには、ほかのクライマーにまでその自粛を強要するという現場を、私は少なからず見てきた。これなど結局は自らの行為を勝手に卑下していることの表れのように、私には思えてならない。
繰り返すが、そこが私有地なら許可という考え方は間違っていない。しかしそれはクライミングという「悪いこと」を許してもらうためではなくて、あくまで人の土地に立ち入ることを許してもらう必要があるためだ。
一方、そこが公有地、つまり国民のための土地であるならば、そこで一国民の一文化的行為であるクライミングを行なうことは、まったく遠慮すべきこととは思えない。登山や、旅行、釣り、ジョギングなどと同様、けっして「悪いこと」ではない、国民の健全な屋外活動の一環として、それを行なう権利を主張して然るべきと思うのである。
ところがここに、もう一つ、大きな問題がある。それはやはり支点=ボルトというものの存在だ。一般的に言って、私有地または公有地の岩に穴をあけてボルトを打つ、という行為は、確かに問題が多いもののような気がする。といってここで私はボルトが悪いといいたいわけではもちろんない。ボルトは今のクライミングには絶対に必要だ。ボルトを使わないクライミングというものもあるにはあって個人的にはそれは好みではあるのだが、それはしかしよほど条件に恵まれた場所でのみ可能なもので、他のほとんどのクライミングからは、その安全管理上、ボルトの存在は外すことはできない。
だが問題は、それを公共の物(岩)にも設置しなければならない、あるいは既にしてしまっている、ということだろう。ことにその岩が国立公園の中にあるものだった場合など、この問題はかなり深刻だ。なんといっても国立公園は国民全員の共有財産なのであり(だから国民はそこで登山や旅行を自由に行なえるのだが)、そこの岩に個人が勝手に手を加えるとなど許されることではない。
それが結局、クライマーの罪悪感を複合的に膨らませてしまっている。ボルト設置の是非だけに留まらず、クライミングという行為そのものまでをも「悪いこと」、さらには「犯罪」とまで貶めて認識させる要因になっているように、思えてならないのである。
しかし、ここで私は再びしつこく考えるのだ。公共の岩にボルトを打つことは、そんなに悪いことなのだろうか? というか、正確には公共の、つまり我々の共有財産であるところの岩場でクライミングをするためにボルトという安全策を講じることは、本当に悪いことなのか?
屁理屈といわれるかもしれないが、では登山道におけるクサリやハシゴはどうなのか? 国立公園内を縦横に走る舗装道路や駐車場、売店、トイレ、旅館などは?利用する、またはそれを求めている人数が違いすぎる、と言われるかもしれない。が、こうしたものの善悪というものはその人数の多寡のみによって変わってくるものなのだろうか? そしてその数字についてもはっきりした基準や根拠があるものなのだろうか?
もちろん今、登山道にクサリやハシゴが設置されていることに文句を言う人はいないだろう。「登山」は今や間違いなく国民の立派な、そして推奨されるべき健全な文化であり、そのために登山道を整備するのはまったく正しい。国民の利益に適ったものであることは100%間違いない。
ところで、我々がやっているクライミングというものもまた、近代登山の発展の中での当然の流れの一つとして成立した登山の中の一文化である。思えば日本の登山の歴史は素晴しい。ヨーロッパで本格的登山が始まるはるか以前から宗教登山などで多くの山が多くの人々によって登られ、200年前には播隆によって世界にも誇れる記録、槍の開山が成し遂げられた。さらに明治になってからはスポーツとしての近代登山が来日外国人、国内富裕層、学生などによって推し進められ、やがてそれはその発展の当然の流れとして冬山やバリエーションルート時代へと突入していった。
登山という追求するに足るスポーツ文化の一環として多くの岩壁が登られ、ロッククライミングというジャンルが完全に確立するに至った。ヒマラヤなどでも日本隊は活躍し、それは今のオリンピックさながら、国威掲揚の糧として国民の喝采を大いに浴びた。またそれ以上に厳しい自然という過酷な舞台で果敢なチャレンジが数多く繰り返され、それは困難に挑むことで個人の自己完成を求めるという意味で、まさにスポーツの究極的な理念に沿った崇高な行為であった。と、こちら側(クライミング側)にいる私などはまったく手前味噌ながら感動すらしてしまうのである。
しかし、これらの行為は実は「違法行為」だった。公共の物を勝手に傷つける行為であり、場合によっては人の迷惑になる(どんな? と私などは聞きたいが)行為でもあった。
近年の「アクセス問題」における深層心理をかなりヘソの曲がった視線で見る限り、どうもそのように自分自身に言っている、あるいはそうした考え方を自ら増長させているように、私には思えてならない。
さてさて、果たして我々は、そんなことをこんにち、受け入れなければならないのだろうか?確かに我々は岩にボルトを打つ。だがそれは我々の登山の一形態としての「クライミング」を安全にまっとうするために必要最小限のニッチ的侵入として行なうことである。そしてそれを律することも、充分に心得ている。
だからこれ――ボルトを打って岩を登る行為――を、できれば公に求めてもらいたい、というのは多くのクライマーの共通した願いだろう。だが同時に、そんなことを声高に言えば藪蛇になってしまうのではないかというのも、我々が根強く抱く大きな懸念の一つであるには違いない。ことに日本のアルパインルートの多くは国立公園内にあり、そこでその岩にボルトを打つなどと言ったら、クライミングそのものすら禁止されてしまうかもしれない。というのが、今までの多くのクライマーの偽らざる本根であるように思える。だからクライミングはあくまで隠れてやる。ボルトのことなど何も知らないというような顔をする。それが長年続けられてきた、我々の現実というものであろう。
だがそれでいいのだろうか?いつまでも我々の立場というのはそんなものなのか?翻って海外に目を向けると、そのベクトルはまったく逆の方向に向かっているように思える。
ヨーロッパではアルプスのクライミングがユネスコの無形文化遺産に登録され、アメリカでもクライマー自身の働きかけ(アクセスファンド)によって、ヨセミテなど国立公園内の岩場の整備に既にポジティブな解決がもたらされている(詳細は追って報告)。
我々もそろそろ声を上げるべきではないだろうか。折しも多様な文化というものがあちこちで取り沙汰され、環境というものへの眼差し(クライミングと環境についても追って論じたい)も深まっている今こそ、まさにそのタイミングであるように思うのだが。
この記事は山と溪谷社刊『ROCK&SNOW 097』に掲載された記事を編集・掲載したものです。
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